1955年4月現旭市に生まれる(旧飯岡町)
1974年県立匝瑳高校卒
1978年北里大学衛生学部卒
1978年千葉県小学校教諭になる
初任地 鎌ヶ谷南部小学校
4年後 飯岡小学校
旭中央小学校
銚子飯沼小学校
椎柴小学校
豊里小学校
豊岡小学校 31年間勤務 退職する
現在はリラクゼーションサロン勤務
臨床検査技師受験資格有 准メンタルケア心理専門士
共産党市女性・児童応援室室長
家族は夫 趣味は音楽鑑賞 演奏 旅行etc
両親も小学校教員でしたが、私が教員になりたいというと大反対されました。
それでも、教育実習をして子どもたちのキラキラとした命に感動した私は、
熱い思いをもって教員になりました。
小さい頃は、おっとりしたいつもニコニコしている普通の子でした。
友達ともよく遊びました。
小学校6年生の時には、みんなで防衛庁の敷地に入って放送で
「そこの小学生!直ちにフェンスの外にでなさい!!」と、
注意されたこともあります。
中学校は、ソフトボールに明け暮れました。
真夏も、体力造りに精を出し、真っ黒になっていました。
楽しい日々で、青春でした。
高校生の時は、電車通学をして、毎朝ギリギリセーフ。
勉強一筋でした。
北里大学では、臨床検査技師になるという目的で入りましたが、
皮膚アレルギーがあり、薬品を扱うのが困難とわかると教職課程に
興味が移っていきました。
免許は、中学・高校理科でした。
そのころ、女性の理科教員は狭き門でしたので、小学校に配属されました。
両親には大反対されました。
初任地、鎌ヶ谷南部小学校での生活が始まりました。
私は、小学校5年生の時に映画館で観た『サウンド・オブ・ミュージック』の
マリアにづっと憧れていました。
広げた両手に飛び込んでくるキラキラ輝く子どもたちの目が大好きでした。
若かったので、休み時間もいつも子どもと一緒でした。
そのころ、共産党員の先生方と出会いました。
開けない夜はない、「夜明けへの道」という作文教員の映画を涙してみたことが
昨日のことのようです。
毎晩、同僚の先生方と教育について語り合いました。
その後、地元出身校でもある飯岡小学校に戻ってきました。
そこからは、管理教育の中で戸惑う毎日でした。
鎌ヶ谷でのミュージカル形式での卒業式が忘れられませんでした。
飯岡小での卒業式にも一部取り入れることができました。
31年間の間にいろいろな出来事がありました。
研究に明け暮れた20代、30代。結婚して妊活もしました。
でも、子どもはいません。
40代、だんだん体の具合が悪くなっていきました。
50代で大手術、退職のころには精神的にも参ってしまいました。
退職後、再び共産党の活動に熱中していきました。
世の中も、どんどんきな臭くなってきています。
政治のこと、社会のこと、物価のことetc学べば学ぶほど、おかしいと痛感します。
日本では、なぜこんなにも滅私奉公のように働きづめなのか?
働いているときは、四季折々の景色すら感ずる余裕もない。